ななこらむ1「こどもについて」2003.10.10


ななはちいさい時から自分の考えがしっかりしてたひと?で、大人にこどもあつかい、大人と対等でない扱いを受けるとすごく怒ったそうです。
「大人びた発言」をして「このこは面白いなあ」と周りの人にちやほやされると得意になっておしゃべりをしていました。
だれもそれを咎めることなく天真爍漫に育ってしまいました。
小学校にはいって作文を書く事をおぼえてから思考もますます冴えて?自分の考えをきちんと伝える能力もめざましく発育していきました。

でもしょせんこどもでした。
親は「ひととしての常識」は教えてくれましたが、世間、生活をしていく上での常識は教えてくれませんでした。
先生もななのうわべの賢さを過信して教えてくれませんでした。
ななは時計がよめませんでした。
時間の観念もよくわかりませんでした。
”8じ”には家をでなくてはいけなくて”5じ”には帰らなければいけない。”8じ”や”5じ”わわかるけどそれがいったいいつくるのかわかりませんでした。
小学生は漠然としたなかで無意識でも小学生であるだけで小学生として生活していけます。
ななはそんな小学生のひとりでした。
みんなが教室に入れば教室にはいり、体操服に着替えれば着替えたのです。

幼稚園の実習のとき、こどもに「幼稚園たのしい?」ときいてはいけないと教わりました。
「幼稚園たのしいね」「お花はきれいだね」と話しかけてこどもの思考を誘導してあげるのだそうです。幼稚園たのしいか?と疑問におもわせてはいけないのです。
「幼稚園=たのしい」「お花=きれい」
これでいいのでしょうか?教科書にものっていいましたがななはずっと疑問に思っていました。

ある実習先の幼稚園で「カレー」が給食にでました。
「わーい!カレーだーっ!!」こども達は大喜びです。
もちろんななたちも同じものを食べます。ななは…その頃確かにカレーは苦手なものでしたがそのカレーはものすごくびっくりな「味のないカレー」だったのです。
よく母が、昔のカレーの話で、「うどんこのいっぱい入った味のないカレー」を語ってくれてましたがまさにそれでした。
見た目も色もカレーなのに味がない!ななは感動すら覚えました。
でもこども達は大喜びで先をあらそっておかわりに来ます。
ななはおかわりに来たこに思わず、
「おいしい?」ときいてしまいました。きかずにはいられなかったのです。
「…????だってカレーだから…」おかわりにきた男の子は困惑しながらそういいました。
ななはこのこの味覚が心配になって「本当においしいの?これカレーの味する?」とさらにきいたら
「………しない。」「でもカレーだから…」
ここで担任の先生からとめられ「カレーおいしいもんねぇ」と流されてしまいました。
その後厳重注意をうけました。
郷にはいれば…の考えでななはしょうがなく納得しましたが納得できませんでした。
あのこ達の味覚がおかしくなったらどうするの?おゆうぎだって楽しくないこだっているはず…
でも彼らもわかっているのです。
幼稚園のカレーは明らかに家のカレーと違うもので美味しくない。おゆうぎは恥ずかしいし疲れるからいやだ(年長組5さい。Aくん)。

「疲れるからいや」「楽しくない」。ませたこで、本音をもらしてくれるこどもがななの周りにはたまたまたくさんいました。
「もーなにゆってんのー!こどもでしょう!そんなこといってて何にもしなかったら人生つまんないわよー」
ななはよく団地の砂場で嫁姑問題になやむ小学3年生の相談にのっていました。
そこではっと気づきました。
彼女たち(彼たち)はさじ加減がわからないのです。
楽しくすごそうとおもえば大人はいくらでも楽しくすごせるのです。(考え方次第で)
大人は自由なのです。
働けばお金は手に入るし、やりたいこともやろうとすれば制限は法律ぐらいです。
与えられた世界のなか。幼稚園、学校、家庭。
「疲れる」「楽しくない」そんなことでその狭い世界のなかでの生活をつまらなく退屈にしてしまってどうするのでしょう。
ななは寝ることが一番好きです。
でも数多くの選択肢のなかのひとつで好きなのです。
寝ずによなよな公園でぶらんこして100mダッシュすることも好きだし楽しいです。
ななはくだらないものや役に立たないものが大好きです。
ムダ(生活に必要のないもの)は文化だと思います。
はたして人生経験の少ない彼ら(彼女ら)にそれがわかるでしょうか?

「疲れる」「くだらない」で生活からいろいろなものを切り離していったらなにが残るのでしょう?
ななは実習先で人気がありました。こどもの目線を大切にし、こどもの考えをきちんときいてあげるからです。実際ななは保母として就職しても、先生というよりはこどもの一員でした。
ななは自分がこどもの頃に経験した「いやなこと」をこどもにしたくなかったのです。
でもそれは正解ではありませんでした。

人間どんなに若く?ても易きに流されるものです。
「疲れる」ことはわざわざしたくないのです。
おゆうぎでも掃除でも、「ななが困るからやってやるかぁ」「ななのため」に「してくれる」様になりました。
「ななが喜ぶから」「なながすきだから」。
幼稚園というところはそうゆうところではありません。
いろいろなことをしていくうちに、そのなかに楽しさを見つけられるように指導してゆく場所なのです。
「ななのため」におゆうぎしてもらってもしょうがないのです。
そんなことでは、いつまでたっても「生活の中から楽しさを見つける」訓練にはならないのです。
ななは物事を教える指導者としては自信があります。ななのクラスは全員上手にはさみが使えるようになるし、楽器だってうまく扱えるこが育ちます。
でも一番大切なことがかけていました。これからの人生最も重要な事です。
ななはこどもの可能性を大事にして、能力をのばすことが教育する・指導することだと思っていました。
確かにそれは必要なことかもしれませんが、まだ幼いこどもにはそんなこてさき?の教育は必要なかったのです。
「楽しい」「いろんなことするのは楽しい」
「犬はかわいい」「お花はきれい」
当たり前のことを当たり前に思考する、その指導の必要性をやっとわかりかけたななでした。

ななは誰にも指導(思考の誘導)をされず天真爍漫に育ってしまったので、大人になった今、こてさき?の常識はありますが、やはり自分の感性でものをいってしまうのでたまにおかしなことをいってしまっているみたで、それを後できくと(だいたいみんな2年後とか3年後に教えてくれる。印象にのこった話として。)やはり自分でもおかしくて、とっても恥ずかしいです。
ななが自分の発言がおかしい事にきづいたのは高校を卒業してからで、それからは変なことをいわないように重々気をつけているつもりだったのですが、つい先日、2年前のおかしな発言が発覚してしまいました。
もう誰かとめてくれよ。その場で。
でも2年たって「変」と思えるということは、2年前の自分より成長している証拠かなと思います。
ななは優しい皆に暖かく見守られ、今日もきっとノンstopななです。
はやく後悔しない日々がおくれるようになりたいです。

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